ホイアン郡の橋

完全版

by  藤井伸二

 

ホイアン郡の橋」は、もともとは 『別冊宝島WT ベトナム沸騰読本』 のために書かれたものです。
 その原稿はたしかに掲載されていますが、刊行の際にページ数の関係で一部カットされました。
「こういう原稿であまりページを使うわけにはいかないんで……」
 という担当編集者の言葉がいまも鮮明に思い出されます。

 しかし、ジャアク商会の藤井としては、こういう原稿で誌面を覆い尽くしてみたかったというのが本音。

 そんなわけで、一般読者の方からのリクエストが非常に多かった 「ホイアン郡の橋 完全版」 をここで掲載することにしました。お時間のある方はぜひお読みになってください。

 

 

 ホイアンに屋根付きの橋がある。そう聞いたわたしが頭に思い浮かべたのが小説 『マディソン郡の橋』 である。
 屋根付きの橋の写真を撮るために立ち寄った名もない町で、初老のカメラマンが偶然に人妻と恋に落ちる……なんの細工もない退屈なメロドラマだが、どこか変わった味わいがあり、世界中でベストセラーになった小説だ。
 小説そのものはつまらないし、読みごたえがあるとも思えないが、広く支持されている原因は、こうした“偶然の出会い”を期待する人が多いためだろう。
 そういうわたしも常に“偶然の出会い”を求めているひとりで、暇があれば旅行に出ているのも、そこに理由がある。最近は“偶然”が重なりすぎて抜き差しならぬ立場に立たされたりもしているが、それはさておき、世界にはわたしと同じ思いを持つ人が無数にいるということだけは間違いない。

 そこでホイアンの話に戻るが、とにかく行って見ることにした。表向きの理由は取材だが、裏の理由は当然ながら“偶然を求めて”だ。
 カメラマンのロバート・キンケイドは屋根付きの橋が縁で美人人妻フランチェスカ・ジョンソンと出会う。それならわたしがホイアンの屋根付き橋で美人ベトナム人女性と出会っても不思議はないのではないか。キンケイドは取材で立ち寄るが、わたしも取材。わたしもキンケイドも名刺に書かれた職業は偶然にも“写真家=ライター”なのだ(これは小説を読んだわたしが即座にマネただけなのだが)。
 偶然といえば、わたしもキンケイドと同じニコンのカメラを使っている。『ナショナル・ジオグラフィック』 と 『別冊宝島』 では内容にかなりのへだたりはあるが、どちらも雑誌の取材であることは間違いない。
 周辺要素にはこれだけ偶然が重なり合っているのだから、これはひょっとするとひょっとするかもしれないぞ。こうなれば思い切って名前も変えてみるのはどうだろう。キンケイド藤井……勝手な話だが、響きが気に入った。

 その瞬間からキンケイド藤井以外のなにものでもなくなったわたしは、荷物をまとめるとスーパーカブ70にまたがった。本物のキンケイドは古いシヴォレーのピックアップ・トラックに乗っているが、わたしは古いホンダのスーパーカブ。共通点は古さだけだが、なにごともポジティブに考えるわたしには影響なく、ベトナム版フランチェスカの待つホイアンを目指して走りだした。
 バイクはダナンの町を流していたベトナム人サッカー選手から奪うように借りたものだが調子はよく、なにかすばらしいことが起こりそうな予感を漂わせながらタラタラと走っている。景気のよい排気音のわりにスピードが遅いのが難だが、ホイアンまでは約30キロの道のり。この調子で走り続ければ、夕暮れまでには十分間に合うはずだ。

 マディソン郡にある屋根付き橋の名はローズマン・ブリッジという。一方、ホイアンのそれは遠来橋と呼ばれている。
 手元のガイドブックの説明によれば、その橋を作ったのは17世紀ごろにベトナムに渡った日本人で、橋に屋根が付いている理由は橋の途中に寺院があるためらしい。
 かつてホイアンには商業港があり、日本人商人も多く住んでいた。場所は特定できないが日本人町もあったとされ、遠来橋も一部のベトナム人の間では日本橋と呼ばれている……らしいが、そんなことはどうでもよい。今のわたしが求めているのはベトナム版 『マディソン郡の橋』 なのだ。

 この小説によれば、キンケイドは目指す橋が見つけられず、捜しまわっているうちにフランチェスカと出会い、彼女の家に呼ばれる。夕食には菜食料理が出され、ベジタリアンの二人はすっかり意気投合。その後は二人でダンスを踊り、結ばれる。
 実はここでも偶然なのだが、ベトナムには宗教的理由で肉を食べないベジタリアンが多くいて、彼らはコムチャイと呼ばれる菜食料理を食べている。コムチャイ専門店はどこの町にも必ずあり、それはきまって肉料理よりうまいのだ。
 だから、わたしのフランチェスカが自宅で、

「わたし、敬謙な仏教徒だから肉が食べられないの。だから、夕食はコムチャイなんだけど、それでもいいかしら」

 などと言い寄ってくる可能性もないことはないのだ。

 夕食のコムチャイメニューを思い浮かべながら、わたしはバイクを走らせた。偶然とは不思議なもので、ホイアンに到着したものの、わたしもキンケイド同様に、屋根付きの橋が見つけられない。ホイアンは小さな町だから簡単に見つけられると思っていたのだが、一方通行の標識が多くて混乱してしまうのだ。
 ロバート・キンケイドはこうして迷っているうちにフランチェスカと出会うのだが、キンケイド藤井が地図を広げてみても、どうしたわけか近寄ってくるのは汚れた作業服の労働者ばかり。
 親切なのはうれしいが、油染みた緑色の服や黄色いプラスチックのヘルメット野郎たちに囲まれても、わたしとしてはうれしくない。

 彼らのアドバイスを得て、デタラメに市内を走り回っていると港に出た。ガイドブックによればここから橋は近いはずだが、フランチェスカの姿はどこにもない。
 しかし、救いはあるもので、当てがはずれてキョロキョロしているわたしに声をかける女性がいるではないか。

「ハロー、ミスター、なにしてるの? バイクを停めるならここよ」

 そんなところで地図なんか広げていないで、お店の中で休んでいきなさいと言う彼女は港前の喫茶店で働く給仕らしい。遠目で見るかぎりでは小柄だが、目鼻立ちが整っていて、色白の肌に長い黒髪が似合っている。どこか日本的な面影があるが、この町にはかつて日本人町があったというから、ひょっとするとその末裔かもしれない。

 声の主が美女だったので、迷わずバイクを停めて店に入った。港に美女の取り合わせは 『マディソン郡の橋』 ではなく 『ギターを持った渡り鳥』 だろうが、キンケイド藤井は小林旭も好きなのでかまわない。
 マイトガイ藤井という名前も悪くはないなと思い直したが、要するに偶然であればなんでもいいわけだ。

 席に着き、ホットコーヒーを注文すると、声をかけてきたその女性がうやうやしく運んできてくれた。しかも、カップを置くと空いていた隣の席に腰をおろし、あれこれわたしに話しかけてくる。

「どこから来たの? ダナン? 違う違うお国の話よ。日本? いいわねぇ、わたしも行ってみたいわ」

 興味津々でたずねてくる彼女。ひょっとするとこの彼女がわたしのフランチェスカなのだろうか。
 しかし、美しい彼女はワキガらしく、近くにいると刺激臭がツンツンと鼻を突く。『マディソン郡の橋』 のフランチェスカはワキガだったのだろうか。
 そんなつまらないことを考えながらコーヒーを飲んでいると、まだ橋を見ていないことに気づいた。これでは取材にならないので、とりあえず仮のフランチェスカ……フランチェスカAとしようか……に礼を言い、金を払って橋を目指すことにした。
 フランチェスカAによれば、橋は店の前の道を左に曲がってすぐのところだという。

「帰りにまた寄ってね」

 フランチェスカAの声にうなずきながら、わたしはエンジンをスタートさせた。ババババッと調子だけはいいがパワーのまるで感じられない音がホイアンの港に響き渡り、バイクは発進した。
 が、景気よく風を切って走るのもつかの間で、わたしはすぐに停車を余儀なくされた。というのも、橋が目の前にあったからだ。

 実際にこの目で見るホイアン郡の橋は、想像していたよりもかなり小さかった。全長は5メートルほどだろうか。小さいうえに古く、なんだか薄黒く汚れている。
 観光客が多いのか近くにはシクローマンがたむろしていて客引きに余念がなく、周辺にはみやげもの屋も並んでいて、いかにも観光地然とした雰囲気が漂っている。乾季のためか川の水量も少ないし、よどんだ黒い水はとても臭い。
 本当に、こんなところでロマンスが生まれるものだろうか。

 考えていてもしかたないので、とりあえず写真を撮ることにした。
 小説のフランチェスカはキンケイドの慣れたカメラさばきにエロティシズムを感じるのだが、さばきかただけならわたしも負けない。

 そんなこともあって、どこかで見ているかもしれないフランチェスカの視線を意識しながら、わざとらしく何度もレンズを交換して写真を撮ってみる。
 しかし、だれもわたしに注目する者はいない。いや、いないことはないのだが、それはヤシの実を行商中の老婆で、外国人が珍しいのかポカンと口を開けてわたしを見ている。
 ひょっとしてこのバアさんがフランチェスカ?
 あたりを見渡しても、この老婆以外に女はいないから、しかたなく彼女をフランチェスカBと呼ぶことにしたが、どうにも寂しい。しかし、これが現実というものだろう。

 適当に写真を撮ってバイクにまたがる。フランチェスカBこと行商のバアさんは、まだわたしを見つめている。
 どうにもならないのでフランチェスカAのところへでも行こうかと思ったが、夕闇が深まるにつれて疲労感がつのってきた。くだらない期待は疲れを増すだけかもしれない。

 帰ろうかダナンへ。
 そう決断したわたしは後ろ髪を断ち切る思いでホイアンをあとにした。
 そう、小説の中のロバート・キンケイドのように。

 

――終わり――

 

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