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今でこそバンコク市の一部となっているトンブリーだが、1971年に吸収合併されるまでの189年間は、前王朝の王都として蔑まれてきた一介の地方都市であった。 その理由は、今でも立派に生きて市民の生活に役立っている運河網にあると言える。バンコク側の運河のほとんどが道路を造るために埋め立てられるか周辺住民の手軽なごみ捨て場となってドブ川と化しているのに反して、トンブリー側の運河は今もなお立派な現役の交通網として機能し続けているのだ。 現在のバンコク市のある一帯は、昔も今も海抜が0〜1メートルと低く、溝を掘るだけで簡単に運河を造ることができる。そのため、自動車がこれほど一般的な消費財になるとは考えもしなかった当時の人は、道路を造って歩くよりも運河を掘って船で移動した方が便利と考え、道のかわりに川を通した。 当時の人々は、わたしたちが道路を想像するのと同じように運河を想像した。家の玄関を出ると目の前にあるのは運河である。「ちょっとそこまで」 行くときは、自転車には乗らず小船に乗る。子供たちは道路で遊ぶかわりに運河で泳ぐ。運河に沿って家が建つ。 運河を埋め、近代的な陸上交通の発達を促したバンコクだったが、過剰に発達し過ぎたため、今では大量の車で道路が恒常的に麻痺してしまっている。計画性のない都市開発が原因だが、現在のバンコクの終末的な道路状況はもはや交通と言えるものではない。 「運河を見直そう」 という声も最近ではよく聞かれる。
(トンブリー地区の運河トリップ) 東洋のベニスの面影を今に残すのがトンブリーだ。古きよき時代のバンコクを探る意味でも、一度はボートでトンブリーに乗り入れてみたい。 ボートは旅行代理店が所有する大型のものからチャーター船まで各種ある。金銭的に余裕があれば一艘借りてもいいが、ここではあえて地域住民の足である乗り合いボートに乗船してみよう。人々の生活水路に生活感あふれるボートで乗り込むのだ。 トンブリーの運河に入っていく乗り合いボートはチャオプラヤー川沿いの各船着場から不定期に出ているが、初めての人は王宮の西側にあるチャーン船着場(ター・チャーン)からバンコク・ノーイ運河に入るボートに乗るのが簡単でいい。 チャーン船着場は大型で、渡し舟、特急船、チャーター船、観光船など様々な船が入り乱れて使用している。旅行代理店の客引きをかわしたなら、通りから真っすぐにチケット売り場を通り抜けて左側に浮いている船着場を目指そう。 船着場から派手な縞模様のビニール屋根で覆われた細長いボートに乗り込む。右と左では行き先が違うが、どうせ終点まで乗ってしまうので、どちらに乗っても問題ない。この旅の目的は目的地ではなく、ボートに乗ってトンブリーを行くことにあるのだ。 向かって左側に停泊していたボートに乗り込んだと仮定して話を進めよう。このボートがバンコク・ノーイ運河行きだ。その右側はモーン運河行き。 船着場を離れるとボートはチャオプラヤー川を北進し、バンコク・ノーイ鉄道駅前で左折する。ここからがバンコク・ノーイ運河の始まりだ。 ボートはそういった歴史を踏まえながら進んでいく。 ときどき前方の座席から送られてくる小銭は船賃なので、これを近くにいる船頭に手渡そう。これが船頭の手に届くと停船の合図となる。 運河に入ると公共の船着場は少なくなり、ボートは各家庭の玄関先に直接寄せられる。だれも大声を上げて指示を出したりしないところを見ると、乗客全員が常連なのだろう。船頭は客の姿を見ただけで停船すべき場所がわかるのだ。 運河沿いに建つ民家で不思議に思うのは、家の正面が運河の方向に向けられていること。玄関から外に出る階段が真っすぐ水中に向かっている。呼び鈴や郵便、新聞受けも階段横に据え付けられている。ここでは運河が道路のかわりをしており、来客は水面からやってくるのだ。 郵便配達人も小船に乗って家庭をまわる。雑貨屋やガソリンスタンドも正面は当然運河向き。川が道路の役割を果たしている、そうわかっていても、なんだかキツネにつままれているような気分になってくる。 川面から突き出して整然と並んでいる電柱を見ていると、ダムに水没した山間部の小村や災害に見舞われた都市のイメージが重なってくるが、数十年前までのバンコクも、やはりこんな感じだったのだろう。 民家の玄関下では住人が水浴びをしている。各家庭には運河上に張り出すように作られたテラスがあり、午後は老人たちのくつろぎの場となっている。 狭くなった運河を通り抜けてにぎやかな町の中に入るとそこが終点。
(バーン・ウェック運河行き) (バンコク・ノーイ運河行き、モーン運河行き) (バーン・クー・ウィアン運河行き、バーン・ヤイ運河行き) (オム運河行き) |