笹原亮の旅行記 「山越えリターンマッチ」 をお読みいただいても、これがなぜ 「リターンマッチ」 なのか理解できない人がほとんどだと思われます。
 そこでその理由を説明するために、被害の当事者であった藤井伸二が秘蔵の日記を公開することにしました。
 日記は長く、前後にまだ膨大な記録が続くので不親切な部分もありますが、関心のある方はぜひ一読ください。

 

1994年 某月某日の日記

南部ベトナム山中にて

by 藤井 伸二

 

1.悪夢のトレッキング開始

 

 俺はジャングルの中をトレッキングしている。しかし、トレッキングと言えば聞こえはいいが、要はただ、しかたなく足を動かしているだけ。頭の中はほとんど白紙で、思うことといえば後悔ばかりだが、我々の行動はいったいどこからおかしくなったのだろう。

 まず、今朝になって笹原が二日酔いの頭を振りながら、サイゴンまで二人乗りで一緒に帰ろうと言い出した。しかも普通の道を行くのは芸がないのでダラットから途中の茶の産地イリンまで行き、そこから海沿いの町ファンティエットまでの98キロの山道を走り抜けて帰ろうというのだ。地図を見れば、たしかに道はある。しかしその道にはバスも走っておらず、どのベトナム人にたずねても、

「やめたほうがいいねぇ」

 としか言わない道だった。
 俺も反対派の一人だった。東南アジアの、特に共産諸国では地図に書かれている道が道でないことは珍しくないことで、俺はそのことをラオスの旅で身にしみて知っている。あの国では国道と呼ばれている大動脈がただの狭い砂利道でしかなかったりするから、移動中は片時も油断できないのだ。
 しかし笹原は聞き入れず、

「だからこそ行くんじゃないか。そこに道があるのなら、どうにでもなるもんだよ。君もそうやってここまで来たんだろう」

 と言いながら平然とバイクを発進させる。迷ったあげくに俺も乗ったが、なんだかふっ切れないモヤモヤした気分がずっと胸に残っている。旅はたしかにどうにでもなるもので、俺自身もいつもはそう思っているのだが、他人から同じ言葉を聞かされると、これほど無責任な言葉もないと思ってしまうのだ。
 実際は、どうにもならないこともあるんじゃないのか。そして、どうにもならなかった場合に待っているのは、とんでもなく深い落とし穴かもしれないぞ。
 不吉な予感は何度も当たる。それは今回も見事に的中して、我々は前方に待っていた深い落とし穴にどっぷりとはまってしまった。

 イリンまでの道のりは最高だった。中部高原地帯の空気は冷たく乾き、空はどこまでも青く、雲は寒さを感じるほどに白かった。バイクの調子もすこぶるよく、この調子で走って行けば、夕刻前には余裕でサイゴンに着くはずだった。

「今晩はビールで乾杯だね。旅の無事のお祝いだ」

 サイゴンまで直線距離で約180キロ残っていた。今の速度を維持していけば、二時間強で街に着くだろう。イリンの茶店で休憩をとった二人はもう無事サイゴンに着いたものとして考えていた。今晩の食事はなにで、ビールは何本飲んで、明日は何時に起きて……。唯一の心配事はタイヤの空気圧が不十分なことだったが、残り180キロくらいなら平気で走れるはずの量はあった。
 ところがイリンからファンティエットに抜ける例の道に入ったとたん、二人の夢想は無残にも打ち砕かれた。道幅が極端に細くなり、そのうえ路面は一面の砂利なのだ。しかも砂利は丸石ではなく、乱暴に切り出されただけの鋭角的な岩石で、異様に激しい突き上げが断続的にシートの下から伝わってくる。

「タイヤがもつかなぁ……」

 徹底した自信家の笹原もこの路面状況は予想外だったらしく、表情は重い。しかしそれでも引き返そうとしないのが、ここまで30と数年間続けている彼のスタイルなのだ。

 路面状態が悪いまま、道はきつい登りに入っていった。あたり一面とんでもなく深いジャングルで、人の気配はまったくなかった。この道に入ってからというもの、出会った村もわずかにひとつだけ。しかもその村は極端に色黒の山岳少数民族が住む村で、通過しながら観察したかぎりでは、ベトナムではなくアフリカか南洋の島々に住む人々のような印象を与えてくれた。
 ベトナムはサイゴンやハノイといった都市ばかりが脚光を浴びているが、茶やコーヒー豆が主力輸出品となっているように、実は国土の大部分が山地で占められる山岳国家なのだった。そして、その山中に住む人々もまた我々が想像するような中国系の色白ベトナム人とは違っており、風俗習慣はもちろん言語もまったく違っていた。革命によって国家統一を成し遂げ、いまはドイモイ政策に沸くベトナムだが、発展は都市部にかぎられた話で、街から一歩山の中に入ると、統一どころか別の国に紛れ込んだような世界が広がっているのである。

「どうだい。こんな旅はちょっとできないよ」

 笹原はそう言うが、無理して威勢を張っているのが振り向いた表情でわかった。意図したものとはまったく違う旅になっているのが声の震えでよくわかる。道は前進するほどに厳しくなり、時に茂みで空が見えないほど森が深くなることもあった。もしトラブルが発生してもどうにもならない最悪のルートを我々はバイクで、しかもリアタイヤの空気が抜け気味の一般道路向け普通バイクで走っていたのだ。
 そして、その最悪のルートの中程でトラブルが発生してしまった。山道を完全に登りきり、勢いをつけて下りを走っている最中に、路面上にいくつも空いている地雷原風の穴ぼこにバイクがはまってしまったのである。
 乗員が振り飛ばされるほど激しい突き上げに驚いてバイクを停め、シートから降りると後輪が見事にパンクしていた。しかも、それだけではすまなかった。岩にぶつかった衝撃でエンジン下部に亀裂が入り、オイルが流れ出していたのだ。

「こりゃまずいよ」

 俺は言った。修理工具は持っていないし、村もない無人の山中にバイク屋などがあるわけがなかった。救援を呼ぼうにも連絡手段がない。人もいなければ車も通らないのである。
 しかし、もう3時間以上も走ったから町もそろそろ近いだろう。距離はたったの98キロなんだし、残りをふたりで押して行っても平気ではないか。楽天的な態度を装って俺は言ったが、メーターの距離を確認した笹原の顔色は蒼白だった。

「そんなことはできっこない。だって俺たち、3時間かかってまだ40キロも走ってないんだ。あと50キロ以上も残っているんだぞ!」

 バイクで走るのもむずかしいこの山道を50キロも押すなんて、とてもできる話ではなかった。かといって山賊も出るという山の中に高価なバイクを置き去りにはできないし、修理となるとさらに無理がある。要するに考えていてもどうにもならないわけで、だれがどこから考えようと、これは非常にまずいことになった。すべてが暗黒に包まれたようなこの状況の中で、はっきりしているのがそれだけというのは、腹が立つほどいらだたしい。

 エンジンを止めると周囲が静寂に包まれた。どうしよう。絶望的な空気が漂うこの山道で、二人はバイクの前に呆然と立ちながらも視線を合わさなかった。そんなことをしたら、「お前が悪い」 「いやお前が止めないからだ」 といった類いの意地悪いののしりあいが始まってしまうからだ。海や山で遭難したグループが内紛を起こして自滅するケースを信じられない思いで見聞きしていたが、今その立場に立ってみると、彼らの気持ちがよくわかった。本当にどこにぶつけていいかわからない怒りが込み上げてきて、だれでもいいから思いきり相手の首を絞めたくなってしまうのだ。この笹原のクソバカ野郎!……と思っても、彼の言うことに従ったのは俺だから文句も言えん。それでも言ってやる、このバカヤロウ!

 結局、これ以上考えてみてもしかたがないということになり、笹原はパンクしたタイヤとオイルのないバイクを無理ヤリ走らせて修理屋のある町まで行き、応急処置をほどこしたあと救援に引き返す。一方、俺は俺で体力のあるかぎり前進して、とにかくこのジャングルから一分でも早く抜け出そうというバカでも思いつく作戦を実行することになった。
 そしてこの、予期せぬジャングルトレッキングが始まったというわけである。

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