仏教はタイ国民の生活に深くたしかに根付いている。思想や行動様式の中にも上座部仏教に基づいたものが多数あり、そこからタイ人の性格形成の秘密を探り出すことが可能だ。
たとえばタイ人の典型的な性格 「ヘン・ケー・トゥア(自分のことだけを考える)」 は、上座部仏教が掲げる 「己だけの完成と救済」 に起因しているのではないか。
大義を欲しない自己中心的な考え方はタイではごく当たり前のことだが、これは宗教的に見て悪いことではない。最終的に解脱できるのは、努力した本人ひとりなのだから。
一向に解消されない貧富の差や身分の差も、宗教的理由によるところが大きい。
もちろんここにはタイ仏教の底流と複雑に絡み合っているバラモン教の選民思想があるのだが、輪廻転生を信じ、現世の不幸は前世での徳が足らなかったためと思っているタイ人は多く、自分の地位の低さ、能力のなさ、度重なる不幸を生まれついての業と考えて、何事においてもすぐに諦めの境地に達してしまう傾向がある。
徳を多く積んだ人ほど救われる上座部仏教では、人々は平等に救済されることなどない。仏教はそもそも反バラモン/カーストの立場から発生しており、仏陀は人間の身分の差を認めず平等を説いていたはずだったが、現在のこの状況はいったいどうしたことか。
また、男性以上に働きながらも社会的には下等とされている女性の地位も、上座部仏教の教儀に端を発している。女性は上座部仏教において不浄の存在とされているからだ。
僧侶となって修行することが認められていない女性は、必然的に解脱に至る道が閉ざされている。これは戒律を守る以前の問題だ。尼僧になることはできるが、彼女たちは僧侶ではない。バスに乗っても席を譲ってはもらえないし、あまり敬意は払われない。
タイ上座部仏教における女性の救済は、まず男の子を産み、その子を立派に育てて出家させ、徳を積ませて初めて成就する。タイ人たちが言うところの、「僧侶の法衣の裾にすがって」 はじめて女性は救いを得ることができるのだ。
彼女たちは、自分だけの努力では、涅槃に行くことができない。世の中は、まったく公平ではない。 |