ラーマ7世降座後、変わってチャクリー王朝の王座に就かれたのは、ラーマ7世の異母兄弟であるソンクラーのマヒドン王子を父に持つ、アナンタ王子であった。
ラーマ7世は子宝に恵まれず、直系の家族がいなかったので、血統を追っていった結果、このようになったのだ。82人の子を持ったラーマ4世、77人の実子が確認されているラーマ5世とは、時代の違いがあるとはいえ、格段の隔たりがある。
アナンタ王子はラーマ8世として1935年3月に即位された。
理知的な美形であられた新国王は、不況と革命の殺伐とした国内に新風をもたらしたものの、王位に就かれたのは若干10歳。そのため、王位継承後もそれまで留学されていたスイスにとどまり、王室はラーマ8世の摂政が管理することになった。このあたりは革命政府の陰謀臭いものが感じられる。
その留学中に、第2次世界大戦が勃発。
ラーマ8世は疎開を兼ねてスイスで学問を続けておられたが、大戦終了後の1946年に帰国が決定し、国王不在の王国にふたたび栄華が戻る……はずだったのだが、この時、チャクリー王朝史における最悪の事件が発生してしまう。以下の話はタイ国内ではタブーとされているので、他言は無用でお読みいただきたい。
……勉学と第2次世界大戦の戦火を避けるためにスイスにとどまられたアナンタ・ラーマ8世は、1946年6月に1938年以来2度目の一時帰国をされることになった。クールな二枚目の国王は、戦後の暗い雰囲気を一掃するかに思えるほどの熱狂を国民の間に呼び起こした。
一時帰国後の訪問予定地は、アメリカ合衆国。そして、そのアメリカへの出発の前日に悲劇は起こった。
1946年6月9日午前9時頃、王宮内のボロマビマン宮殿内で1発の銃声が響いた。驚いた側近が王の寝室に駆けつけると、国王が床に倒れており、側には拳銃が転がっていた。
医師の診断を待つまでもなく、こと切れているのがわかった。というのも、銃弾がこの若い王の額を貫いていたからだ。
……以上がタイ警察による発表だ。
公式には、「国王の御不幸は事故であった」 との発表がなされたが、なにしろ王室内での事故であり、事後対策も不明瞭な部分が多く、後味の悪いものが残った。
当時の内閣は事故の責任を取って総辞職し、数年後、当日王室警護にあたっていた数人が事故の関係者として処刑されたが、そこでも背後関係はまったく明らかにされなかった。
事件の真実はともかく、期待の若き国王は、こうして崩御された。タイ国民に残された希望は、彼よりもさらに若い、弟君のプーミポン・アデュンヤデーッ王子であった。 |