タイのシルク王ことジム・トンプソン氏は1906年3月21日、アメリカ合衆国デラウエア州グリーンビルで生まれた。彼は少年・青年時代をそこで過ごし、1924年にプリンストン大学に入学。卒業後は、さらに建築学を学ぶため、ペンシルバニア大学に再入学している。 1939年、ヨーロッパで第2次世界大戦勃発。建築家としての生活は気に入っていたものの、平穏無事な生活に嫌気がさしていたトンプソン氏は即座に仕事を辞めて軍隊に志願し、国内砲兵隊員となった。 トンプソン氏到着から数週間すると、彼の前任者が帰国。かわって彼がO.S.S.バンコク支局長の座につき、アメリカ領事館を開設すると、臨時の外交業務を代行担当する。 翌1946年末に除隊。ホテル買収のための投資家を募るための一時帰国中に妻と離婚。 それまでのタイシルク産業は、完全な土着的家内制手工業であった。織り方は素朴で粗野、色もデザインも洗練とは程遠い民族的な独自の生産品だったらしい。しかし、その野趣あふれる美しさに魅かれたトンプソン氏は、すぐにタイシルクの研究に着手。将来性があると見ると職工たちに新しいアイデアを加えた試作品を織らせ、本国に戻って宣伝活動を始める。 商業ベースに乗ることがわかった彼は、タイに戻って本格的なビジネスとして取り組むことに決め、1948年に株主を募って株式会社タイシルク商会を設立。職工たちを組織して欧米の技術を導入し、洗練さを加えていく。 彼は優れたアイデアマンであったが、同時に優秀な宣伝マンでもあった。それは彼の軍歴と地位を生かした広範な人脈のおかげでもあっただろう。1951年3月、ブロードウェイでのミュージカル王様と私に同社製シルクの衣装が採用されることになった。ミュージカルは大ヒットロングランとなり、タイシルクの人気とステイタスも同時に高まっていく。 財を成すにつれトンプソン氏は、かねてからの趣味であった古美術品の収集にも力を入れ始める。彼の収集方法は、財力と行動力に支えられた盗掘すれすれと言ってもいいような強引さだったが、その功績は計り知れない。結果的に彼は真の盗掘家の手から美術品を守ったのだから、タイの岡倉天心のような人物とも言えるだろう。 1958年には、彼が愛するタイ文化の集大成とも言えジム・トンプソンの家をアユタヤーやその他の地方の民家を寄せ集めて完成。もともと建築家であった技術を遺憾なく発揮し、後世にも残る立派で文化的価値も高い「民家」を築き上げた。 運命の1967年は、そうした成功の日々の真っ只中にやってきた。同年3月23日、61歳の誕生日を迎えたばかりのトンプソン氏は、友人たちと復活祭を祝うために隣国マレーシアに向かい、友人の別荘のあるキャメロン・ハイランドに投宿した。 この捜索はマレーシア警察やイギリス軍の手による陸空同時の草の根作戦となったのだが、長期にわたる奮闘の末も効果は上がらなかった。 彼がもし今も生きているとすれば90歳を越える高齢となるが、生存説はほとんど消えている。1974年には法的にも死亡が宣告され、遺産は各方面に分配された。 こうしてタイシルク王は消え、後には彼が熟成させたすばらしい芸術品だけが残された。 |