王朝の発展とともに進んだ

バンコク市の成り立ち

前編

by 藤井伸二+ブライアン

 

 1782年、ラーマ1世がチャクリー王朝を開いて王位に就くと、これまでトンブリーにあった都を、チャオプラヤー川を隔てた対岸にあるバーンコーク村へと遷都した。これが現在の大都市バンコクの始まりである。

 遷都の理由にはいろいろとあったようだが、

@トンブリーが都として手狭になったこと、

A川を隔てることによって、アユタヤー王朝を滅ぼしたミャンマー軍の侵攻を阻むため、

B川がアユタヤーと同様に都の西側を流れるようになるため、

 などの説が有力だ。

 ラーマ1世は、新都バンコクに、14世紀から17世紀にかけて400年間に渡って繁栄したアユタヤー王朝の再現を夢見ていた。王制、政治、行政はすべてアユタヤ王朝の制度を見習って確立され、街並みや寺院の様式もアユタヤーに似せて造られている。
 地図を比べてみれば、バンコクとアユタヤーの都の相似性に気づくだろう。川の蛇行の具合などが、とくによく似ている。

 王はまず市の永遠の繁栄を願うため、バラモン教の教えに従い都の起点を現在の王宮東側に定め、1782年4月21日午前6時45分、市の柱を打ち込んだ。これが王宮の横にあるラク・ムアン(写真左)だ。ここから今日のバンコク市の繁栄が始まる。
 王は次いで守護寺ワット・プラケオを建立し、国王にふさわしい王宮の建設に取りかかる。

 また、敵の襲撃を防ぐため王宮の東側に運河(オンアーン・バンランプー運河)を掘ってチャオプラヤー川の支流とし、バーンコーク村を人工的な小さな島にしてしまった。この島はラッタナーコシン島と命名され、チャクリー王朝の別名にもなっている。チャクリー王朝は別名ラッタナーコシン王朝とも言い、現在でもこの一帯は市民に 「ラッタナーコシン・カオ(古いラッタナーコシン)」 という地名で呼ばれている。

 さらに王は、運河の内側を破壊された都市アユタヤーから運び込んだレンガを積み上げて造った城壁で島を取り囲み、16の要所にを築き上げて都の守りを強固にした。
 外敵もいなくなった現在ではこの砦も無用の長物とされ取り壊されてしまったが、プラ・スメン通りとプラ・アティット通りの角(写真右)、ワット・ラーチャナダー前、ワット・ボウォニウェート前の3カ所の要塞だけが、1982年のチャクリー王朝200年記念行事の一環として復元され往時を偲ぶことができるようになっている。

 仏教の最高守護者の任を負うチャクリー国王は、代々仏教の発展に力を注いだ。王室寺院の建立およびバンコク遷都以前に建立されていた寺院の修復工事もラーマ2世と3世の治世時にそのピークを迎える。バンコク市内にある王室寺院のほとんどがラッタナーコシン地区に集中しているが、これらはすべて、彼らの手によって建立あるいは修復されたものだ。

 都が順当に発展し、手狭になったと感じたラーマ4世は、王城地区のさらなる拡張を決定し、ラッタナーコシン島の外側に全長5.5qにおよぶもう一本の運河(パドゥン・クルンカセーム運河)を掘った。
 また、当時のバンコク市には道路と呼べる道路がなかったため、新たに王宮横からチャオプラヤー川に沿って南下する大通りを1861年から3年がかりで作り上げ、チャルン・クルン通り(繁栄する都通り)と名付けた。これが今もチャイナタウンを東西に走って中央郵便局の前を通り、クルンテープ橋のたもとにまで及ぶバンコク市の大動脈ニュー・ロードの開通である。バンコクで初の本格的な計画道路であった(しかし、今ではもっともオールドな通りだ)。

 続くラーマ5世は、アジア諸国やヨーロッパでの外遊経験を生かしてシャム国の近代化(西洋化)に着手して行政改革を断行し、市内全域を近代国家にふさわしいものとするよう手を加えた。彼はラッタナーコシン島の北東に、広大なドゥシット宮殿を造りあげる。
 さらに、王宮からその宮殿にまで至るラーチャダムナーン通り(現在のラーチャダムナーン・ナイ、ラーチャダムナーン・クラン、ラーチャダムナーン・ノークの3大通りの総称。当時は一本道だった)を、フランスの首都パリにあるシャンゼリゼ通りを参考にして開通させ、それに伴う市内の道路交通網を整備した。
 また、市内の各所にタイ/ヨーロピアン融合様式の建築物をいくつか建て、外国文化の薫りを導入した。電信電話業務が始まったのもこの頃だ。

後編に続く

 

 


ジャアク商会への声援、激励、連絡はこちらへ

ジャアク商会総本部
SPAMや迷惑行為を含む有害メールはgmailで事前にフィルタリング(削除)されます