サラーン・ロム宮殿を建設し、引退後はそこで暮らそうと考えていたラーマ4世が、日食を見学に地方に行った際にマラリアに感染され、そのまま崩御されると、1868年にチュラロンコーン大王ことラーマ5世が、若干15歳で即位された。
タイ国民なら誰でもその名と功績を知っているこの王は、まさに歴史上の英雄でもある。
成人すると、王はその蓄えられた知識とエネルギーを爆発させるように開花させ、父モンクット・ラーマ4世が推し進めてきたシャム国の近代化を、一気に世界的レベルにまで到達させた。
チュラロンコーン王は、まずシャム国における司法と行政改革を断行する。
ヨーロッパ諸国の制度を見習って、1874年に国政協議会と枢密院を創設し、1892年には各省庁を作り、1894年には地方を分県・再編成して現在にも続く中央集権を確立。
さらに税制を見直して財政を整え、1896年、シャム国で初めて国家予算を立て、国家行政を運営した。それまで、この国には国家予算など存在しなかったのだ。
王はまた、国全体の近代化のためには教育の普及が不可欠と考え、王宮内には王族用の、タナオ通りにあるワット・マハン内には1884年に一般用の学校を創立させ、奨学金制度も新たに導入し、国民の啓蒙に努めた。タイ国内でもっとも入学難易度の高いとされているチュラロンコーン大学の基盤、文官養成学校を創立させたのもこの王だ。
また、王は電信電話業務を創始して現代情報網の基礎を造りあげ、パリのシャンゼリゼ通りを模したと言われるラーチャダムヌーン大通りを王宮からドゥシット宮殿に至るまで通し、さらに周辺道路を整備して、外国人たちに不評だった市内の交通網を整えた。
また、バンコクから250q離れた東北部の街ナコーン・ラーチャシーマー(コラート)県までの鉄道を敷設してシャム国で初めての機関車を走らせ、地方と都を結ぶ交通網の基礎を確立した。
また王都には、一時は国会議事堂としても利用されていた西洋建築物アナンタサマーコム宮殿、大理石寺院として有名なワット・ベンチャマボーピット、円形回廊を持つワット・ラーチャボーピット、王宮内にドゥシット・マハ・プラサート宮殿、さらにはアンポーン公園からウィマンメーク宮殿に至るまでを包含する巨大なドゥシット大宮殿を造りあげた。
王はヨーロッパやアジア諸国を歴訪し、次々によいもの新しいものを吸収してシャム国を発展に導いていった。
そんな王の功績で最も偉大なのは、シャム国において長年にわたって続けられてきた奴隷(不自由民)制度の廃止だろう。
人道的にも優れたこの功績は、幾多の抵抗に阻まれながらも1905年4月、なんと30年もの歳月をかけて達成された。絶対の神であるシャム国王の権力を持ってしても、30年かかったのだ。奴隷制度がどれだけ強固であったか想像できる話である。
西洋への迎合との非難も高かったラーマ4世の教育改革だったが、そうした英断がなければチュラロンコーン王のような名君も生まれなかっただろう。決断と行動力の人だったが、その実際は近づき難い人ではなく、暇を見つけると自転車に乗って自分が通したラーチャダムヌーン大通りを走り回ったりする人間味のある穏やかな人だったと伝えられている。
また、王は5人の王妃のほかに100人近い数の妾を囲っていたとも言われ、後にいったい何人の王族を残していったか定かではないという、文字どおり精力的な国王でもあった。
一説に妾の数は160人以上であったとも伝えられており、立派な王宮があるにもかかわらず別にドゥシット宮殿を建設しなければならなかったのは、妾の数が多くなり過ぎて王宮内に収容しきれなくなったからとも言われている。
これも大勢の人に愛される王の人間味のひとつと考えていいのだろうが、本当に大きな話だ。
現国王プーミポン・ラーマ9世を除き、歴代のタイ国王は妾を持つのが当然とされてきたが、ラーマ5世はその方面においても一般人とは一線を画する能力をもっていたのだ。
彼はその生殖能力と種の保存能力においても超一流であることを証明した。チュラロンコーン・ラーマ5世はすべての面においてチャクリー王朝の頂点に立つ偉大な王であり、また、奔放さの許される最後の国王でもあったのだ。
旧ドゥシット宮殿の中心、アナンタサマーコム宮殿の前には、彼の栄光を記念する騎馬像が建てられている。 |